ヤマトタケルの白鳥伝説と大鳥大社の関係は

更新日:2023-06-18

神社仏閣

日本武尊を祀る 大鳥大社

和泉国一之宮大鳥大社は、大阪府南部の和泉地方(堺市)にある神社で、和泉国の一之宮として知られています。一之宮とは、古代における律令国ごとにあった中心的な役割を果たす格式高い神社を指し、その地方の人々の信仰の中心であり、神々への尊崇を象徴しています。

大鳥大社の祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。
日本書紀や古事記に登場する伝説的な人物で、第十二代景行天皇の第二皇子です。彼は勇敢さで知られており、古事記と日本書紀によれば、ヤマト王権に抵抗する九州南部の熊襲(くまそ)を平定しました。



もう一柱のご祭神は、大鳥連祖神(おおとりのむらじおやがみ)であり、和泉国で繁栄した大中臣氏族の祖先である大鳥氏を祀った存在です。この大鳥氏は、古代氏族名鑑である「新撰姓氏録」によれば、天児屋根命(あめのことやねのみこと)を祖先としていると伝えられており、藤原氏とも祖先のルーツを一にすると思われます。

日本武尊の白鳥伝説

東国の平定も行い、途中でさまざまな困難に遭いながらもなんとか帰還しました。そして、伊吹山の神を討つために山に入ったところ、神の怒りに遭い病気になってしまいました。病状のままで大和を目指しましたが、都に到着することなく伊勢国の能褒野(のぼの)で亡くなりました。

日本武尊の墓が建てられ、人々は悲しみに暮れていました。すると、日本武尊の霊が白鳥の姿となって陵墓から飛び立ちました。最初に舞い降りた場所は大和の琴弾原(ことひきのはら)であり、再び舞い上がり、次に降り立ったのは河内国の古市です。

その後、伝承によれば、再び天空に舞い上がり、最終的にこの地に降り立ちました。そこに社を建て、日本武尊を祀ったことが大鳥大社の起源となっています。この神域の森は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれており、白鳥が降り立った時に、一晩で樹木が急速に茂ったと言われる伝説に基づいています。

独特の建築様式 大鳥造りの本殿

建築面でも大鳥大社は注目すべき建築様式です。大鳥大社の本殿は本殿は大鳥造といい大社造に次ぐ古い形式の独特の様式であり、神社建築史上独特の形を保持しています。この様式は出雲の大社造に類似しており、切妻造りで正面と側面の両方が二間(間仕切り)で構成されています。大社造との主な違いは、大鳥造の場合、入り口が正面の中央にあるため、中央に柱が存在せず、側面の裏にも柱がなく、内部は前後の二つの部屋に分かれていること、また、心の御柱が存在せず、高床も低いことです。


和歌と大鳥大社

境内には和歌石と呼ばれる石碑があり、これらの碑は訪れた人々が和歌を詠んで刻んだもので、大鳥大社が長い間尊重されてきたことを物語っています。日本武尊を祭神とするため武家の崇敬厚く、古くは平治元年(1159年)、熊野参詣に向かう途上の平清盛が立ち寄り、清盛は「かひこぞよ かへりはてなば 飛びかけり はぐくみたてよ 大鳥の神」という歌を詠んだ。

和歌や自然、祭りを通じて地元の文化と歴史を体感できる大鳥大社は、訪れる人々に深い印象を与えます。その古き良き伝統と風景は、現代に生きる私たちにとって、ゆっくりと時間を過ごし、自然と歴史に触れ、心を落ち着かせる貴重な場所です。

まとめ

このように、大鳥大社はその長い歴史、神話と伝説、美しい自然、祭りなど、多方面からその魅力を発揮しています。神社そのものの美しさと、そこで行われる祭りや儀式によって地元の人々と訪れる者たちとの絆を深め、また、その歴史的な背景と自然環境を通じて人々に思索と敬意の機会を提供する場所として、大鳥大社は大きな価値を持っています。

ここには、私たちが今どきの忙しい生活から離れ、自分自身と向き合い、自然と歴史に深く触れ、そして心を静めることができる場所があります。その神聖さと安らぎ、そして美しい自然は、訪れる人々に心の安らぎを与えてくれます。関西方面に行かれる際には、日本武尊の伝説に思いをはせながら大鳥大社を訪れてみるのも良いかもしれません。

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